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星界の道~航海中!~

星界の道~航海中!~

【堀上人に富士宗門史を聞く】2

 【日辰、日我の時代】

 ○ この二箇の相承が紛失したのは、いつだったですか。

【堀上人】 重須の日殿。

 ○ ああ日殿。日殿というと……

【堀上人】 日殿というとてすね、日我の弟子の日儀という人が小泉にいましてね、そして、北山との関係が深くなって、北山に呼ばれて移っちやったです。

 ○ その日儀が日殿という人ですか。

【堀上人】 ええ、日殿です。

 ○ それで紛失して。

【堀上人】 ええ、紛失した。

 ○ 日殿は断食して死んだ。

【堀上人】 ええ。紛失というよりも、武田氏にたきつけて強奪したのですね。それは西山の日春の計いです。日春というは偉い人だったんですね、そんなこと、やつちやつたが。

 ○ この当時、日辰とか、日我とか、おりましたですね。日辰や日我が盛んにやつているころは……

【堀上人】 やつているころは不思議なもんで、この日辰と日我の仲かぴったり行かなかった。その縁がありそうなもんですけれども、おかしなもんですね、機会がなかつたですね。

 ○ 両方とも自分が偉いと思っている。

【堀上人】 ええ、そりゃ、そうでしよう。それもあったでしよう。

 ○ その当時は大石寺は日院上人のころだったですか。

 【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ 大石寺は割合、默つていたですね。別にとりたてて……

【堀上人】 いや默つていないです。默つていないけれどもね、日辰から例の……日辰という人は悪くいうと山師でね、よくいうと熱心ですね。富士の諸山を連合してね仲良くして、そして、この要法寺と和合して大きくしようという頭だった。それに日辰の方針はね、富士が二箇の相承なんかにそんなものにこだわっているからダメだ。
二箇の相承なんか、打っちやつてしまえ、それが邪魔になる、二箇の相承を振り廻すのなら、二箇の相承を振り廻すだけの勢力をもつてから振り廻せ、今のような劣勢で二箇の相承を持ってるからといつたんじゃ世間が通らない。そんなことしや仕様がない、キレイに二箇の相承を忘れてしまえ、そうすりや、今度は自分のカで行くんじゃから、もっと立派になるんじゃ、君らは二箇相承なんかを頼んでいるからダメだ、そういうその、日辰の主義だつたんですね。
そんな風ですから、大石寺にきたつてね、大石寺は硬いからね、色んなこという奴は相手にならんと、それで院師が交通を断つちやつた。

 ○ それが日院上人のときですね。

【堀上人】 その手紙は今でもあります。断った手紙が要法寺に残っております。ええもう婉曲に断ってある。

 ○ それで日辰は、日有上人が癩病でもって死んだなんて、余計なことを書いたんですね。

【堀上人】 そりや、日辰が書いたけれども日辰の説じゃないんじゃ。北山で聞いたからといって、祖師傅の中に書き加えてあるので、日辰の説じゃない。

 ○ この日辰や日我が、盛んに勉強していた時代ですね、信長のころですか。そのころは、やはり太閤記なんかみると、どこの寺でも、念佛なんか、ずいぶん、兵隊を養成していたようですね。武器なんか集めて、僧兵なんか……

【堀上人】 ええ、僧兵がやつばり叡山むきでもって、僧兵が、ずいぶん盛んだった。
けれども一般には坊さんそのものが僧兵にならんでも、その、檀家――檀家というと少し……あの時分は檀家がなくて信徒ですからな――信徒そのものがですね、自分の属している信仰の、そういう、イザというときのつつかえ棒になった。武人の信仰が多いですから。叡山のように、坊さんがすぐにその鎧を着て、薙刀をもって歩くというわけじゃなかった。武器をもっことは、ほとんど差し支えない。この時代の日有上人あたりの條目でもですね、武器をもつことは差し支えないことにしてある。けれども禮盤にのぼるときなんかは、武器をもってのぽるなとなっている。道中するときなんかは差し支えない。そういうものを持つていなくちや、危くて歩けない。

 ○ やはり勉強も盛んだったんでしようか、このころは。

【堀上人】 勉強は、そうですね、一般にその各宗門ともにですね、必ず、青年ほどつか學問の盛んなところに行ってというわけじゃなかったんです。志のある人は遊學したです。遊學するときは、その遊学する本山の宗風に同化してですね、自分の信を打つちやっても良いという覚悟でやったんですね。

 ○ 要法寺の日陽が大石寺にきたのは。

【堀上人】 昌師時代ですね。

 ○ いろくな御■■を拝見したという……。

【堀上人】ええ、重須にも行きましたけれども、大石寺の方がですね、親しかったですね。ついでに重須に行ったくらいのものですから。

 ○ 二箇の相承の紛失した後だったんですね。

【堀上人】 ええ、後ですよ。日陽は日辰門下ですから。これから後が、例の不受不施問題でね。あれはひどい目に合ったですからね。弾圧のために、表向きには、お題目を唱えられなかつたですよ。陰で人の聞かないところで唱えるくらいのことでして。

  【小梅常泉寺】

 ……註……
  化儀抄(富士宗学要集相伝・信条部)
 
一、出仕の時は太刀を一つ中間に特たすべし、折伏修行の化儀なるが故なり、但し禮盤に登る時、御霊供へ参る時は刀をぬいて傍に置くべきなり云云。
  日興遺誠置文(御書全集一六一八頁)
一、刀杖等に於ては佛法守護の為に之を許す。但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事。


 ○ 江戸小梅常泉寺建立というのがありますけれども、これが今の常泉寺の始めでしようね。

【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ 慶長二年です。

【堀上人】 それは、大石寺で作つたんじやない。

 ○ ああ、そうですか。

【堀上人】 もと天台宗でできた。天台宗でできたものが今度ですね、什門派の妙滿寺の方で又それを補った。本行坊の日優という人が、その時代に日精上人の教化をうけた。

 ○ ははあ。それで日精上人のときに大石寺に移った。

【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ ああ、そうですか。

【堀上人】 眞光寺がそのときにできた。そんな関係で、そのですね、大石寺が総本山という名称ができた。総本山という名称はですね、小さな本山にはつけられなかつたんですよ。政府の制度でね。ですから、孫末、曾孫本寺ができたのですからね。常泉寺の今度は本寺の真光寺というふうになった。真光寺に本寺がありますから、曾孫末を持っているから、今度は、総本山といえるようになった。ですから、総本山という名称を大石寺がもらったのは、その、わしどもの働きなんじや。それをうまく利用したから総本山にしてくれた。百坊以下の、その小さな本山には総本山なんという名称はくれなかつた。曾孫本をもっているんじやから総本山にしてもらった。そりや大本山と総本山は同じようなものだけども、やっぱり総本山の方が良いからな。大きいように思われる。今なら総本山でも差し支えないけれどもね。明治の三十年ころじや。
六十、七十の末寺をもって総本山というと笑われちまう。そんな総本山はないです。


 【紫宸殿御本尊】

 ○ その要法寺の日性という人ですね。この人が紫宸殿御本尊をどうした、こうしたなんて……
【堀上人】 ええ、そうです。それは宮中の御出入りをしていたから。ですから、その陛下から望まれて、紫宸殿の御本尊じやない本尊――ただその要法寺の何といいますかな、あまり立派なものじやないですよ。
今でも残っていますがね。いえば偽物というほうですね。山中喜八なんかは御本尊集の中に入れていないでしよう。まずいからね。相手がまずいんじや。それをもっていつたけれどもね、宮中じや、日蓮聖人の本尊の見分けがつく人はいないですからね。日性がですね、奉持して宮中に行つたもんですから、紫宸殿にかけて拝まれたということです。それで紫宸殿の御本尊というようになった。

 ○ 大石寺の紫宸殿の御本尊……

【堀上人】 大石寺の御本尊は、まだ紫宸殿に入っていないんじや。

 ○ 全然いわれが違う。

【堀上人】 そう、紫宸殿におさめるという意味。要法寺のは偽物でも何でもかまわん紫宸殿におまつりしたことがあるから紫宸殿の御本尊という。大石寺の方は日性が宮中にもって上る以前から、すでに紫宸殿の御本尊ということはいっている。日陽時代にももう、紫宸殿の御本尊を拝するといつている。だから紫宸殿の御本尊というのはごく古いときからいっている。紫宸殿のタチがちがう。一方は紫宸殿に上つたという一方は広宣流布のときに紫宸殿にあげるという。まるで、規模が九っきり違う。それをですね、大石寺の紫宸殿の御本尊は日性の紫宸殿の御本尊のマネゴトだ、なんて悪口いうのはとんでもない話だ。

 ○ 本末顛倒ですね。

【堀上人】 この紫宸殿の御本尊は、弘安の本尊の中では立派ですよ。お山に正筆が澤山ありますけれどもね、紫宸殿の御本尊ほど立派な御本年はないですよ。そこで日有上人が目をっけてですね。自分の関係のところへ紫宸殿の御本尊の御寫しを安置したわけですね。けれども、あの当時は技術が下手ですからね、ですから、うまくいかなかつたのです。わしの紫宸殿の御本尊は立派じや。寫真からとつたんじやから。すつかり、そのままです。寫真からとって、それを引き延してやったんですから御正筆と少しも變わらないですから、■稱の連中は私のところへきて御本尊を拝んでもね、よく目を光らしてみていきますよ。立派ですから。

  【十八世、日精上人】

 ○ 日精上人というお方はやはり、こう、政治的にも相当力があったのでしようか。

【堀上人】 そうですね、政治的にはどうですかね。政治上に運動された形跡はないですがね、その敬台院はですね、馬鹿に精師を、精師の青年時代から、精師を、何といったらいいか、育ててきた人ですからね。

 ○ 敬台院と、ちようど、同じ時代の人だったんですね。

【堀上人】そう、そうです。

 ○ その後、敬台院と仲が悪くなった。

【堀上人】 それは何から仲が悪くなったか知らんけれども、敬台院の書いたものによるとですね。日精上人の書いた御本尊などは拝みたくないとなんということを書いてあるくらいですからね。信仰上の衝突だと思うね。精師のやり方がどうも、敬台院の方からいうと、誠意がないとかどうとかいう筒題じやないですかね。

 ○ 敬台院という方は熱心に信心しておられる方なんですね。

【堀上人】 ええ、熱心です。

 ○ こんなに大石寺を応援して下さるんですから。
 京都の本国寺と越後の本成寺とが本本を争って、その證■は大石寺にあるなんていうのがあったのですね。門徒存知抄を持ってこられて、その證■にしたなんて出ている……敬台院の生れたのは慶長五年……。

【堀上人】 ええ。

 ○ 寛永のころですから、そろそろ、世の中なんかも落ちついてきたから、こういう家中抄なんかも編さんされた。

【堀上人】 ええ、家中抄は漢文ですからね幕府が落ち着いてからです。

 ○ このころ金澤に布教したわけですか

【堀上人】 いや、金澤はね、今の常在寺がですね、下谷町二丁目で、昔はあそこを提燈棚といつたんですね。竹町提燈棚といつた。雁鍋は今はないですが雁鍋の裏でね、せんの池袋の前の常在寺でね。それがですね。上野ができるために、上野から立ち退きを命ぜられてきた。上野の今の美術學校の方にあがる坂ですね、あの坂のもっと、この、北の方にあったんしやないですか。
それを、上野ができるためにですね、あのデカイ法城を寛永寺の敷地ときめたのですから。ジャマになるから随意にどこにでも立ち退けといって、そして今の竹町の雁鍋の裏のところに移ったんです。それですかも、金澤家の例の前田大納言のですね、邸が今の東京大学でしよう。あそこに屋敷があつた。あそこに屋敷があって、近番者がみな詰めていたんですから。その人たちがその、常在寺へ参詣したらしいですね。むこうの人の金澤の伝説なんかでは日精上人が、どうかすると、道路演説をやつたといつている。それはどうかと思いますね。やった方がよいけれども、道路演説はやったということは書いてありませんね。道路演誕はできないらしいですからな。そんなことをやったら、すぐに縛られてしまう。結局、まあ、上野から提燈棚に下って相当に布教されたらしいですね。そこで近いですからね、再々前田家の屋敷から忍んで参詣にきたらしい。それがもとになってですね叉國に帰って信仰したらしい。ですから、精師の布教がもとですね。

【金澤の法難】

 ○ そうすると、それ以来、徳川時代をずっと通して、とうとうその加賀では免許にならなかったんですね。

【堀上人】 ならない。運動はあったです。
その間に運動はあったですけれども、とうとう免許にならない。やはり、つかまったりした。ええ、つかまって切腹した人が一人二人あつたんじやないですか。というのは、その、尾張の法難の方はね、士分はなかつたんですね。百姓町人が多かった。金澤の方はね、士分が多い。百姓はむろんないですがね、町人はあまり少なかった。大がい士分だつたです。中に以ですね、役づきをした相当な人があつたですよ。家老というほどではなくともね、何かの奉行みたいなことをやった人があったんですよ。それでも、表向きの信仰はできなかった。

 ○ で、つかまったり切腹したり……

【堀上人】 ええ、ですが、あの時分のすべてのですね、木山のことを書いたものとかまたはいろいろなことについての記録はですね、金澤の方が多いです。とってあるです。その記録がその後どうしてあるですかね。最近では、もう、失くしちやつたんじやないかね。もつと欲ばつて自分のところへ抱きこんでおけばよかつたけれどもね、人の手紙を、そう、やたらと、持ってくるわけにはいかんから。やればやれたんです。そんなことを、むこうじや大事にしないからね。そうはいかんですね。今失くしたんじやないですかね。

 ○ 今、お寺が……

【堀上人】 寺はあります。寺はありますけれどもね、住職に、御存知かしら、品川にいた、有本の弟子が妙喜寺の住職になって行くといいますから、ぼくのところにきたから、「君、何だ、妙喜寺に行ってどうするんだ」といった。妙喜寺というのは、檀家がですね、六軒しかなかった。「布教やるのか」といつたら、「布教はダメでしょうけれども、何とかやります」なんてね、山師ですからな。何とかやると思っていたんですけれども、何とかやらなかつたんでしよう。ですから出ちやって、それで尾張の妙道寺の兼務寺になっちやった。そんなふうで、一時ね、学校の教員上りの人が、恩給でもって食えるんですから、寺を自分の寺として、そここ寝起きしてですね、そして、まあ、頭剃って坊さんになったんです。それが永く継いてくれればよかったんですけれども、その人が不幸にして早く死んじやった。それは固い人でしたがね。その人の時代にわしはそこへ行ったんです。
行ったから、頼まれるんですから、わしの方で東京の信徒にすすめて、木造制限などがありましたからね、コバ葺きでしたから屋根を瓦にして、内部の造作を変えて、今度は土塀を――子供が乗り越えられるような穴がありましたからね――土塀を塗りかえて、まあ、寺へ盡くしたですがね。その人が、もう十年も生きてくれると良かったんですけれども。何しろ、その時分、檀家が六軒しかなかったんですからね。

 ○ 今、また金澤に学会員がたくさんできております。  

【堀上人】 今はできておる。ただ寺の場所が悪い。

 ○ お寺にも史料は残っていないわけですか。

【堀上人】 あればいいと恩ってね。尊いという史料ではありませんですけれどもね。御信者がみな苦心した史料だから。非常にみな、そういうものを書く人はね、士分の侍でね、能筆の人が書いたんですから。誰がみても、よく分る字で書いてある。

 ○ 毎月、信者ができましてね、盛大になっております。やはり、お寺は名古屋からお出でになるようです。

【御書の編さん、興學】

 ○ 御書を編さんし始めたのは、いつころからでしようか。

【堀上人】 御書の編さんはですね、確かの記録はないですね。ないですけれども、身延の録外というのが、相当に古いですね。
で、身延の録外と今の録外は違う。今の録外ができたのは、まあ、そうですね、録内のできたあとで、できたんですから。録内のできたのがですね、日我あたりの元本が房州にありますからな、録内の……。

 ○ ああ、そうですか。

【堀上人】 その時分は、ほとんど録内という名稱はなくともですね、今の録内というものが、いくらかあった勘定ですね。それはですね、京都の日住という人が發起してそして関東の諸山を廻って、御書を集めたのですね。それは、そうですね、戦国時代の、いくらか早い方ですね。ですから、今から五百年も、もっと前ですか。

 ○ はあ。そうすると、妙蓮寺日眼のころですか。五人所破抄見聞のころ………

【堀上人】 いや、あれより、ずっと後ですその人は、大石寺にはこなかった。北山にもこなかったらしいですけれども、関東の一流の寺には、みな出入りしたですね。そして、まあ、ほとんど親密につきあって、そして、いろいろ集めたらしいです。
ですから、御書の編さん史などは、ほとんど、明細にはわからんですね。大がい、その邊で想像して、おつつけておりますがね。ただ名稱は録外というものが、いく種類もありますからね。

 ○ 本満寺とか……

【堀上人】 身延の録外、本満寺の録外と、いろいろありますから。

 ○ どうして、あんな馬鹿なことをいい出したんでしようね。六老僣が集って池上に一週忌で集めたなんて。

【堀上人】 あれは、ずつと後じやろう。ああでもいわんというと、録内が光らんから。

 ○ 同しウソを書くにしても。ずいぶん頭の悪い連中のウソですね……

【堀上人】 ええ。

 ○ このころから、日精上人の後ころから、各宗派とも學問が盛んになったのですね……啓蒙の日講ですね、あの人のころなんかが、相当研究が盛んだったらしいですが……

【堀上人】 ええ、あの時分は盛んです。盛んで叉その例の関東の檀林がね、檀林は戦国時代からありますけれどもですね。檀林が非常に盛んになったのは、やはりですね幕府に入ってからです。それで啓蒙日講なども、その、檀林の學間のお蔭でね、あんなに、佐土原に流罪されておりますけれども、待遇が流人待遇じやないですからな。
お客さま待遇です。始めから六人扶持(ふら)という待遇ですからね。六人扶持で、一人は側に公然と使うことができるような待遇です六人扶持というと相当に食えますからね。
そういう名稱で日向に流されて、流されたですけれども、やっぱり、備前の浅野家に関係が深かったですから、浅野家から、いろいろのものを送った。後には、浅野家との縁が切れたけれども佐土原の方じや、殿様が馬鹿に信用していた。
 それは檀林の能化で、相当に学問があつたんですから。そこで、いろくな学問を藩内の士分に教授したんです。神道の講義さえもやったんですからね。神道の講義でも、禅宗の講義でも、何でもござれだったからね。そんなじやったから、他宗の坊さんも頭下げて日講の講義を聞きにきたという。

 ○ それでは、信仰というよりも、本当の学者、学問の切り■りですね。

【堀上人】 ええ、そう。それで、そういう人が不受不施ですからな。不受不施というのは、人から謗法の世話を受けないというのが大事だけれともですね。自分でも謗法者に物を與えるということはできないわけです。ですから、日蓮宗の学問を堂々と人に教えるのなら良いですけれどもね、神道の学問を教えたり、それから儒家の講義をしたりするのは良くない。それは法施じや。
法の施しをするようなものじや。それを平気でやっているんだからな。(笑)そこに不受不施というものが叉純潔でないことがわかるわけですね。頭からそういうふうにして、晩年まで立派な待遇でもって亡くなったんですね。屋敷なども何度となく變ったんですよ、いい屋敷にね。殿様が出張ってきて、そして日講と一しよにお酒飲むなんていうことをやつたらしいですからね。

 ○ 殿様も閑で困っていた。(笑)

【堀上人】 ええ、閑だから。(笑)まあ、江戸に行けばね、相当の用があるけれども、國に帰っている時代は用がないから。政治は家老まかせだからね。

 ○ 日精上人のころから、お像を作るのが盛んになったのですか。

【堀上人】 そりゃ、常在寺の御影様は作ったでしようけれども。どうですかね。御兩尊といってね、宗祖開山の御木像はですね余り作らなかった。それは、ないわけじやないけれども。お山の御木像は、あれは日時上人の時代にできたのですが、各末寺に戦國時代にできた御影様というのは、そうありませんね。奥州あたりも、ほとんどないです。ですから、幕府になってからということになるが、精師時代から御影ができたということも信ぜられんですね。両尊はまあ、早くからあったですね。

 【中興の祖、日寛上人】

  ○ じや、次に、日寛上人様ですね。日寛上人の教学が、日蓮宗各派の謬説を破折した、しめくくりのようなことになりますね……。

【堀上人】 まあですね、寛師でなくちや、寛師以後は夜も日も明けなかったですね。
 それは、寛師の學間というよりも、むしろですね、寛師の行体じやないですか。偉く学問ができて、偉く能辯であってもですね普段の行体がだらしないというと、曾俗の信仰を集めることができないですからね。
その點、寛師は非常に謹直であった。そんなわけで寛師の信仰が一般の人にしみ渡っているのじやないですか。學問はむろんですけれどもね。
 學間だってヤタラと、その、手廣くやって、縦横自在にですね、法義を作るとか、又はいろいろな歴史を書くとかいうことはしない人ですね。ですから、ほとんど寛師は歴史上のことなんか無関心ですよ。それほど大事にしない。六巻抄を中心にして大聖人の御正義を完べきに打ち立てられた。
 又三大部をはしめ、大台の法義には明るい。三大部の引用などは、とっても綿密なものですからね。わしが日蓮宗の者らと交際する時分に、あっちの清水學長や、前の脇田学長なんかは、非常に、その、寛師をほめていましたよ。「おなたの方の日寛上人という方は三大部はえらいですね。ああいうように巧みに引くことは容易じやないですよ」なんてほめていましたけれども。
というのはですね。その時分の細草談林ですが、傅了日崇という人が談林の初祖でねその人が八品ですけれども、とっても三大部に明るい人でね、その人の學風が残っていたですから。ですから、その、寛師は所化時代から三大部に明るかったです。ですから、今お山では、あまり大事にしておりませんですけれどもね、三大部の、いや、その四教義なんかの講義の本が、寛帥の直筆で残っていますよ。ほとんど若い者はみないですよ。みろといっていますけれどもね、わからないから。今度はそれもお山ヘ行ったら、和譯して読ませようと思う。容易じやないです。
 それから、わしが手入れした手入れ残りはね、図書館の中にですね、こう、そうですね、四尺四方ぐらいあります。バラバラの本がね。あれも、まあ、一つ整理しておきたいと思います。なかく容易じやないです、手がとどかなくて。そのように、まあ、寛師は、傅了日崇の跡をうけて三大部に明るかったです。

 ○ 日寛上人の学問といいましても、さっきの啓蒙日講なんかとは、全然、もう、本質が違うわけですね。

【堀上人】 ええ、啓蒙日講はその代り、何でもできた。さっきもいいましたけれども神道の講義する、禅宗の講義するという具合ですからね、廣いから世間うけはいい。
宣師はそういう無駄な学問はしてござらんそのくせ、若いときのですね、いろんな書いたもの見るとですね、何といっていいですか、歌なんかよまれてね、詩なんかも作っておられる。ですから、本山あたりの古い人の話ではですね、寛師は俳諧の點取師だと、そんなような悪口いう。悪口じやないけれどもね、そんなこという説が残っているんですよ。そのくらいに、やはり、この俗っぽいところもあったですね。

 ○ おそげと角力が有名だった……

【堀上人】 角力はまあ、後からつけたもんでしよう。(笑)それから、おそばは好きでいらっしゃった。それは寛師ばかりじゃない。今あまり坊さんに、そば好きはないですけれどもね、わしどもの青年時代はね坊さんの御馳走はそばが一等でしたよ。だから、自分たちがそば好きでしたからね、客がくると、すぐそばです。「そば打て」といわれるときは、貫首さん、よほど機嫌のよいときです。わしどもの師匠なんかはそば好きでね。うどんよりも、そばでしたよ。何か、この、御馳走食いたいということになるとそばです。「そば打て」ということになる。そしてですね、例の東京のざるそばの五杯や六杯じや承知しない。十杯ぐらい平気で食ったものです。それがですね、だしが何かというとてすね。イモガラです。イモガラというやつは、ちょっと、こう、うでるというとね、いい味が出ます。うで方がまずいというと、おかしく渋くなりますけれども、イモガラです。椎茸なんか、高いから頁わない。よくて人参です。それから秋のキノコ。キノコといっても、あの邊は初茸が少いですからね、モグサのなんかの。そういうものがダシですねわしの師匠がそば好きで、わしが、この、ダシがまずいから自分で研究して、渋柿の皮を干してですね。それをダシにした。渋柿は皮をむいて干すでしょう。それをうっちゃるんでしょう。それを天気のよいときからからに乾かしてね、それを、さっと、うでる。すると、いいダシがでる、それはわしが発明したん’じゃ。(笑)それであげたらね、「きさま、不器用だけれども、どうして、こんないい味をでかすんだ」といつてね。

 ○渋柿のダシ

【堀上人】 ええ、うまかった。大体、取りようが悪いと渋が出ますからね。そういうふうで、とっても、そばが盛んに出ますけれども、うまいダシなんかなかつたですね まあ東京のお客さんなんかくるというと、「御本山のそばはうまいけれども、ダシがまずいから、今度きたときは、そばやからタレをもつてこなくちや」なんていう客が多かつたです。

○ はあ。もっとも、あの頃では、ほかに食べるものがなかった、

【堀上人】 ええ。


  【日寛上人の業蹟】

 ○ 今の、大石寺に日寛上人の御書きになったものは御法蔵にある。

【堀上人】 ええ、御法蔵蔵にある。六巻抄から、御書の文段もある。御書の文段が、ほとんど明治三十年ごろまで、ないときまっておったです。わしは、それでムダやってね、いろんな古い寫本集めて自分で校訂して寛記撮要というものをこしらえていたです。そしたら明治四十何年ですか、大正になる間際に御法蔵で発見したです。御法蔵も狭いところでないから、特に気をつければよかったけれどもね。また後で、手をつけると叱られるからね、棚の上にあげてあった。ほつぼり出して。誰も気がっかなかった。ないことにしてしまった。調べてみりや、大がいあるです。散失しているのは少かった。

 ○ 日寛上人様の、この簿記(続家中抄)は正しいですね。

【堀上人】 量師の寛師の伝記はですね、続家中抄は量師が書かれたものですけれどもね。その量師以前に、日堅上人の伝記があって、それからですね、日詳上人の御説法の中に、寛師のことを書いたのがある。そういうのが材料になっているらしいです。あとで想像して害いたのしやないです。そう.いう確かなものが残っているです。

 ○ この、御金を残されたということも事実ですね。

【堀上人】 ええ、事実です。それはですねみな、五重の塔に因師が入れちやった。

 ○ ははあ、三百両、

【堀上人】 その三百両からですね、今度は住職の、今の貫首の交替のときに百両づつ支度金なんて、そんなものやら、いろんなものを、みな方丈に保管してあるものを、五重の塔の資金が足りないで、そしてですね、因師がそれに使われた。で、そのときのですね、五重の塔の會計の目録がわたしのところにありますがね。四千何百圓かかってくる。四干何百圓かかって、あれは諏訪大工の……名がありませんけれどもね、信州の諏訪に有名な大工がおってね、それが作ったらしいですよ。本山の記録には、大工の名が書いてありませんがね。

 それは一時わしのところにきていた、その、面白い学者がおりましてね、天幕かついで、そこら中しらべて歩く学者だった。(笑) 一つの何ですね、何といいますかな今よくやりますね、そこら中、発掘してねあれのちよっと小さいのですね。自分の調査のですね、地方の了解をうるまでは、テントの中に入って待つというようなね。ですから、テントをかつぐんですから、自分が発掘した材料なんかも持っているです。
それを、わしが貰った。長野県で堀り出した昔のウハバミですね、これくらい骨がありますですね、三寸ばかりありますがね、どのくらいのウハバミじゃろうといいますと、四斗樽ぐらいじゃろうというのです。
立派なものです。中の髄のようなところなどにはね、キラきら光ったものなどがありますね。そりや、ガラスかけるのですよ、それだけ別に取り出して……そんなものまで持っているんです。いろんなものをくれるというが、いらんから、それだけもらった。それで仲々ですね、建築にも明るい。
とうしましたか、有名な人間になるべき人間なんですがね。久しく消息をきかんから死んじゃったんじゃないかとも思う。その男のいうのに、「これは諏訪大工です。この手法はいくらも、ほかにあります」なんて、もっとも、あの頃の田舎大工のやり方とは違うんですから。
 


 ○ 当時は、ずいぶん、この、お所化さんの中にも、學者が多かったわけですね。
日寛上人様の御説法、講義をきかれた。

【堀上人】 何しろ、その門下が大変ですよね。あれで、御説法の聞き書きについてですね。観心本尊抄の聞書が一等多いです。
観心本尊抄の聞書が六種類もありますかねだから、肝心の本尊抄の研究などには、とっても良いですよ。それ、聞き書きですからね、その人の、書いた人の御意見が、いくらか挿入されております。聞き書きちうのは、その場で速記するなんていうことはなかったですからね。頭において後で書いたもんですから。ですから、自分の主観が大分入っている。そこに面白味がある。

 ○ あれだけ残っているくらいですからやはり、もっとあったわけでしよう。

【堀上人】 ええ、あった。

 ○ そのころ残された三百両というお金は、今ではどのくらいの金額なんでしようか。

【堀上人】 そうね、あれで、小判でですねあの時分の小判が、そうですね、慶長大判とは格が違うですけれどもね。まあ、明治になって残りつている小判の中では、中流以上の格があったでしよう。だんだん後になってくると銅が入ってね、品質が落ちたですけれども。慶長時代のは、ほとんど純金ですからね。入つても、まあ、銀が一割か五分しか入っていない。

 ○ 日精上人の家中抄上中下は歴史的に誤りが多いということはわかりましたが、日量上人の続家中抄はいかがでございましようか。

【堀上人】 続家中抄はですね、近世になって書かれたもので、量師が本山にあつた大途日記(方丈日記という意味)や公用文献などをもとにして書かれなさつたから、誤りは少いんじや。ほとんど信用してもいいと思う。だが、もつと、くわしく書いてもらえばよかつた、近世のものじやからね。

 ○ それでは今日は、日寛上人までで終らせていただきたいと思います。大変にお疲れと存じまして……

【堀上人】 いや、なに、わしや平気です。くわしく、お話すればきりがないけれどもですね、要点はそれですから。

 ○ はあ……

【堀上人】 しかし、話が聞えますかしらんわしはね、今から三日ばかり前に歯を入れたばかりで……

 ○ 充分入っております。おかけしてみましよう。
  (テープレコーダーをかける)

【堀上人】 うん、これはよく聞える。わしの声は若々しいな……これならあと五年や十年は大じようぶだ。(爆笑)

 ○ 御忙しいところ、どうも永い間ありがとうございました。  (文責在記者)



【堀上人に富士宗門史を聞く】1【堀上人に富士宗門史を聞く】3


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